カテゴリ:河原嶋うどん
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男の肖像
立秋がすぎて八月にはいると、河原嶋のある塩川谷に赤トンボの群れがやってきました。
八月の初旬は夏の盛りといっても、ここ河原嶋は涼しくなったので、山からおりてきたのでしょう。
早朝から鳴いている蝉たちの声を背景に、赤トンボたちは朝の光を羽に遊ばせながら,深緑の海で乱舞をしていたのでした。
河原嶋に赤トンボがやってきたその日、私は蔵にはいって、ずっと気になっていた古い箱のなかのものをみていました。
その箱には蓋はありませんが、箱にはいっていた蓋だったらしい板には、「河原嶋菊兵衛」の墨書きがあり、平民が苗字を持つことは許されなかった時代に、河原嶋の屋号を自分の名前にしていたことが忍ばれました。
その板を裏がえすと、「文化十酉歳」と書かれてあります。メルママはこの箱から、文化五年の護摩がでてきたと言っていました。江戸では歌麿や広重の浮世絵が売りだされ、十辺舎一九の東海道中膝栗毛が初刷をしていた頃です。
それから四十五年後の一八五三年に黒船がきて、日本は激動の海に漕ぎ出してゆきました。
ここ大鹿村の河原嶋は、東京から遠く離れた山奥にありましたが、時代の波は、その男にも押しよせていました。
かつて、メルママの古民家に暮らしていた男のもとに、天皇の肖像画と詔勅が送られてきていたのです。
日露戦争の幕あけです。男は召集され、飯田連隊区に出向いてゆき、砲兵隊に編入されたことが、箱に残されていた手紙などからわかりました。
私はそれらを読みすすめるうちに、その紙一枚、一枚が、遺品というよりは、男の骨肉のような気がしてきたのです。
私は箱を蔵から出して、家のなかに運びこみ、虫干しをしてやりました。古い紙から立ち昇るすえた匂いは、二百年の時空を超えてやってくる人の気配のようでした。
それから、私はまた蔵にはいって、古くて急な階段をのぼっていました。蔵の二階の片隅に、気になる板がたてかけてあったからです。
それがスキー板とわかったのは、その横に竹でできたストックがあったからですが、そうと判っても、それがスキー板だとは信じられませんでした。
スキー板らしものを蔵から出して、水洗をすると、それは一枚の木でつくられた、確かにスキー板でした。
それはみるからに無骨で、こんな板きれでスキーができるのかと怪しみました。日露戦争に召集された男が作ったのだろうと私は思いましたが、大正から昭和の初めにかけて作られたメーカーものらしいことがわかりました。
あの時代にスキーといえば、裕福でなければできません。その男の一生は戦争にいろどられたものにみえましたが、自身の人生も謳歌していたことを、そのスキー板は物語っているようでした。
私は一枚の写真が思い出されてきました。それは蔵に残されていた写真を、メルママがアルバムに綴じたなかにありました。
その男は残雪の南アルプスを背景に、ハンチング帽をかぶり、キセルをふかしていました。
このスキー板は、この男のものに違いありません。
陰干しをして、すっかり綺麗になったスキー板と、ストックを河原嶋の家に迎い入れました。
漆喰の壁にたてかけると、この家の主のように動かしがたいものがあります。
それはそのはずです。あの男が、かつて、この家の主だった時代があるのです。
あの男のように、私も、メルママも、この家の物語の、ほんの一瞬を間借りしているだけです。
スキー板を眺めていると、あの男が、ここにいるようでした。
あの男が、このスキー板をとりに現れそうな気もすれば、スキー板自身が、男のようにも、私のようにも、メルママのようにも思えてくるのでした。
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暑い夏
原爆投下を決めたトルーマン元大統領のお孫さんが、原爆忌にあわせて来日をしました。
アメリカでは原爆投下の是非について、いまだに世論は二分をしているみたいでね。
一偏の詩を掲載させていただきます。
仮包帯所にて
峠 三吉
あななたち
泣いても涙のでどころのない
わめいても言葉になる唇のない
もがこうにもつかむ手指のない皮膚のない
あななたち
血とあぶら汗と淋巴液とにまみれた四股をばたつかせ
糸のように塞いだ眼をしろく光らせ
あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐だけをとどめ
恥ずかしいところさえはじることをできなくさせられたあななたちが
ああみんなさきほどまで愛らしく
女学生だったことを
たれがほんとうに思えよう
焼け爛 れたヒロシマの
うす暗くゆらめく焔のなかから
あなたではなくなったあななたちが
つぎつぎととび出し這い出し
この草地にたどりついて
ちりちりのテカン頭を苦悶の埃に埋める
何故こんな目に遭わねばならぬのか
なぜこんなめにあわねばならぬのか
何の為に
なんのために
そしてあななたちは
すでに自分がどんなすがたで
にんげんから遠いものにされはてて
しまっているのかを知らない
ただ思っている
あななたちはおもっている
今朝がたまでの父を母を弟を妹を
(いま逢ったってたれがあなたとしりえよう)
そして眠り起きごはんを食べた家のことを
(一瞬に垣根の花は ちぎれいまは灰の跡さえわからない)
おもっているおもっている
つぎつぎと動かなくなる同類のあいだにはさまって
おもっている
かつて娘だった
にんげんの娘だった日を
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製麺機が手打ちを超えていた話
人間、どこでプライドを失うかわかりません。
それは私にとって、驚きと同時に、今まで自分がやってきた手打ちというものが、もはや不要な時代になっていたことを知らしめるものでした。
ほったんは、あの粉です。
その粉はとても風味がよく、手打ちうどんにして、一口食べた私は、その場で気にいったのですが、他の粉にくらべてグルテン量が多く、食感は硬いものでした。
その粉は昔からお焼きに使われてきました。しかし、その粉だけで作ったうどんには、私は出会ったことはありません。
その粉は河原嶋でうどん屋をするにあたり、とある製粉メーカーからサンプルとして送っていただいた長野県産の地粉でした。
話しは変わります。
私は手打ちをするつどに、人類の知恵を感じないではいられません。
人は、そのままでは食べられない草の実を粉にして、熱を加えれば食べられることを発見しました。その粉が、さらに麺になるまでには、数百年か、あるいは千年単位の時間がかかっていたに違いありません。
私の手打ちは蕎麦からはじまりましたが、何度、打っても、茹でるとばらばらになってしまいました。何べんもやり直し、蕎麦粉がようやくつながったのは、蕎麦打ちはじめて二十四回目のことでした。
ところがうどんは、一回でつながりました。
うどんは誰が打っても、おそらく一回目でつながります。うどんの手打ちは蕎麦にくらべ、はるかに簡単でした。
ところがうどんは、やるほどに難しくなってゆきました。
蕎麦の材料は蕎麦粉と水だけです。そこに人為のはいる余地はありません。うどんはそれに加えて、塩、寝かせ、捏ねが入ります。それに加減を考慮すると、組み合わせは無限で、蕎麦にはないそれらの工程に、人為のはいる隙間が懐ふかくあって、そのなかにはいってみると、そこは迷路でした。熟練した打ち手は、それらを巧みに編み、みずからが望む食感を手に入れていたのです。
当初、その粉は三十五パーセントしか水を呑んではくれませんでした。口を開けるのを拒んでいる意地っ張りな人のようでした。なるほど、たしかにそれは長野県の風土が育てた麦でした。私はそのかたくなさに敬服すらしました。
私は半年かかって、その粉に四十三パーセントの水を呑ませられるようになりました。それでも、歯ざわりは硬いままです。もっと水を吸わさなければ、私の望む食感は得られないのですが、もはや切るカードすら見当たらなくなっていたのです。
そんなときでした。
「製麺機をみにいかない」
とメルママはいいました。
「しょせん機械ですから。手打ちにかなうわけがありません」
「みておいて損はないと思うよ」
たしかに、そのとおりです。ヒントになることがあるかもしれないと思い、私はでかけることにしました。
その製麺機会社のオフィースは、東京の一等地にたっている大きなビルの一階にありました。
私はちょっとびっくりしました。たかが、といっては失礼ですが、その、たかがうどんを作るだけの機械を売って、こんなにも立派なビルに入れるものだろうか。
私はこのときまで手打ちが一番と思っていたわけですが、このビルに入れるほど売れる製麺機をみたくなりました。メルママも私とおなじ感想をもったらしく、私たちは足早になって、その会社のドアをあけてみました。
すると、清潔感あふれる白い廊下が目に飛び込んできました。うどんの現場にありがちな粉っぽさが全くなかったのです。廊下の突き当たりにはフロアが広がっているらしく、うどんの研修生だという人たちが、そこでうどんづくりに励んでいるのがみえました。
私がイメージしていた製麺機の会社とは、およそかけはなれていましたが、しょせん機械です。手打ちにかなうはずがありません。
私は担当の方にいいました。
「その粉は水を呑んではくれません。ですから、手を焼くとおもいます」
「しょせん、粉ですから」
担当の方は、あっさりいいました。私はかえす言葉をうしないました。それから担当の方に導かれて、製麺機のあるフロアにゆきました。
はじめてみるその機械は,洗練された最新鋭の鉄の塊にみえました。
私はその機械のまえに立ってみました。まるで、飛行機のコクピットのようでした。
担当の方はあらかじめ仕込んでおいたうどん玉を手にすると、私たちの眼の前で、あっという間にうどんにしてゆきました。私はその機械の手際のよさに圧倒され、気がつくと、称賛すらしている自分がいたのです。
「では、来週きてください。その粉を仕入れて、仕込んでおきますので」
担当の方は、簡単にいうのでした。
「頼もしかったね。来週がたのしみ」
帰りの車中でメルママがいいました。
「もし、そうなると、私の手打ちはどうなるの」
「だったら、やることないよ」
「ショックです。自分なりにやってきたことが、突然、大気圏に突入して、火ダルマになって、燃え尽きてしまうようです」
「私はそのほうがいいな。だって、Uさんがもし病気になったとしても、あの機械があれば、私もうどんが作れるから」
私は複雑な気持ちになりました。店を安定的にながくやるには、メルママがいうように、人力よりも機械のほうがいいのかもしれません。しかも、それさえあれば、誰もが簡単にうどんを作れるのです。
それから、一週間がたちました。
私たちは製麺機メーカーの製麺室で、あの粉でつくったうどんを食べていました。食感はやはり硬いものでしたが、悪くはありません。なによりも、その粉独特の味は、つゆがなくても食べられほど美味しいものでした。
「どうですか」
担当の方がいいました。
「水分量は」
「四十八パーセントにしてみました」
「四十八パーセント・・・」
私は素直に凄いとおもいました。
「うどんに関しては、もう手打ちに意味はないのではないですか」
担当の方の言葉に、私は頷くよりほかにありませんでした。
「私の知らないあいだに、製麺機が手打ちを超えていたのですね」
「早い速度で、時間をかけて水回しをすれば、四十八パーセントの水を入れることができます。手では無理です」
私は製麺機にではなく、よりよい麺をつくるために、手打ちのシステムと粉を徹底的に調べたのであろう人たちに脱帽をしていました。大昔、草の実を粉にした人類は、今、さらなる未来にむかって羽ばたいているのを、大げさではなく、私は目の当たりにしたようでした。
「買おう」
メルママはいました。
「そうだね」
私はいいながら、ちょっと寂しかったのです。
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