店でつかっている包丁を研ぎおわって、並べ、眺めているのが好きです。
そんなとき、決まって思いだす人がいます。
先年、亡くなった義理の叔母です。
某企業の社員食堂の賄をやっていたひとで、終生一人暮らし。
定年退職後は、料理を趣味にし、お陰さまで私は叔母からたくさんの贈り物を頂きました。
それは食べきれないほどの蕗煮であったり、食べきれないくらいどっさりの根菜煮であったりしました。なにしろ、ぜんかいのが食べおわらないうちに、また宅急便がやってくるのです。
また送ってきた・・・
呆れたようにいいながら、実は重宝させてもらっていたのです。
亡くなったのは夕飯の支度をしていたとき。
彼女に突然、訪れた死。いちばんびっくりしていたのは、彼女だったのかもしれません。
享年78歳。
叔母のマンションの後かたずけを終えて、最後にのこったのが十数本の包丁。
どれもが使い込まれていて、手入れもゆきとどいていました。
出刃は、よほど使い込んだのでしょう。かわいらしい小出刃になっていました。
「これ、もらっていいかな」
「どうせ捨てるしかないから、つかったほうが叔母も喜ぶよ」
これはいいものを頂戴したと、私は嬉しくなりました。
叔母の包丁は形見で頂いたのではありません。
それはプライベートのときに使います。
狭い台所で、想像をめぐらせて料理をするのは楽しい。そんなとき、叔母の包丁はいろいろなことを語りかけてきます。それをきくのは嬉しいものです。
それにしても、叔母の包丁はよい出来です。
包丁は、はじめは切れない。使い込んで、手入れをするうちに切れるようになる。
生前、叔母が送ってきた根菜を思い出しました。
大きさを揃えて乱切りにされていた人参。一個、一個、大切なもののように六方むきにされていた里芋。
そうか、あれはこの包丁で切ってたんだ。
包丁をみなおしていました。
叔母が笑っているようでした。
そうか、この包丁で切ってたんだ・・・
ありがとう。叔母さん。
ほんとに、ありがとう。
ごちそうさまでした。