これからを安らかに生きるために。 

カテゴリ:Iターン生活

フェースブックにばかり気をとられて、最近ではこのブログに何かを書くことが少なくなりました。
きょう、このブログに向かわせているのは、来月で自分が還暦を迎えるからだと思います。

このところ、なに不安なことがあって、でもそれが何なのか、よくよく考えてみると、これからの人生をどのように過ごすのか、還暦をむかえるにあたり、無意識にそのことを考えていたのだと思いあたったわけです。

私の家系は母方も父方も長生きで、皆さま90歳いじょう生きておられました。
自分も90歳くらいまでは生きるのだろうと、いままでは思っていました。

90歳というと、まだ30年ありますが、還暦をむかえようとしている自分に直面すると、それがなんの安心材料にはならないことに気がつきました。
いつこの世を去ってもいいように、散らかし放題な心の整理をしておくことが、これから安らかに生きるためには必要なのだなと思いました。

気持ちを安らかにしたくて、きょうは朝はやく起きて、自己流ですが座禅をしていました。
不安なおもいというのは、頭の後ろとか、側頭部から生まれるのを、自分は体験的に感じていましたから、意識を前頭葉のまえ30センチくらの少し下に集中させる禅は、精神を安定させるのに、よい薬なのを、私は知っていました。
禅をしているうちに、、私の気持ちは久しぶりに安らかになりました。

自分は宗教というものには無頓着ですが、尊敬をしている方がおられます。
その方は、ある禅寺の住職です。

その寺に父の遺骨をながいあいだ預かって頂いていた関係で、年に何度かその寺を訪れていたのですが、あるとき私は、ほんとに軽はずみだったなと反省をしていますが、住職にこんなことをいいました。
「住職さんは寄進されたもので暮らしているわけですけれど、寄進がなくなったらどうするのですか」
すると住職はいいました。
「そのときは死ねばいいんです」
私はびっくりしました。住職はさらにつづけます。
「坊主は昔からそうしてきましたから、寄進がなくなったら死ねばいいんです」
私は衝撃をうけながら、口先だけかもしれないと思い、いいました。
「結婚はされないのですか」
「しません」
住職にはなんの迷いもなさそうでした。
「どうしてですか」
「自分の師匠がそうだからです」
なにか、私についていたものが雲散霧消して、晴れ渡っていくようでした。
これが法のちからか。これが信じるということか。私は感動していました。
そのときまで、わたしは住職は40代と思っていたのですが、60代であることを知り、さらに驚きました。
住職は母と寺で暮らしていましたから、ということは・・・
「お母様は、お幾つになられるのですか」
「101歳です」
びっくりしました。どうみても60歳くらいにしかみえません。
もちろん、お若くみえるのには、個人差がありますけれど、私はこれも法のちから、信じる力なのだろうと思いました。
なんの不安なく生きる。
それは信じること。
なにを。
尊敬をしている人の生き方を。

親鸞の逸話にこんなことがあるそうです。
ある夜、親鸞の教えに不安を抱いた弟子たちが親鸞のもとに押しかけます。
弟子たちはいいます。
「あなたの教えを信じていいのですか」
親鸞はいいます。
「信じなさい」
「なにを根拠に」
「自分の師匠がそういっているから」

信じる者は救われる。
自分もそう思っています。
それには尊敬をしている人がいること。
自分はもういいちど、あの寺の住職にお会いしたいと思います。








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